なんでもマルチメディア(539):ヒマラヤ見物

今年で結婚50年になったので、1月下旬から2月上旬にかけて、ネパールに金婚旅行に行ってきました。目当ては世界最高峰のエヴェレストを始めとするヒマラヤの山々を自分の目で見て、空気を体感すること。今の時期は乾期で天候が安定していますが、相手が高山なので、霧や雲が出れば見えません。幾日も山道を歩く体力は失せてしまったので、遊覧飛行に期待することにしました。


 写真:ヒマラヤ1は、首都のカトマンズ空港から運行されている山岳遊覧飛行機の機内から写したものです。一番高い山がエヴェレスト
(8,849m)で、その右側がローツェ(8.516mです。7,000m級から6,000m級の山が延々と連なっている景色は壮大でした。この飛行機の搭乗券は行き先がMOUNTAINとなっていました。

 山が最も美しい時間帯は、朝日がでるときだということなので、日の出前の6時半に出発する最初の便を予約していたのですが、6時過ぎに濃い霧が空港を覆い、航空機の離着陸ができなくなりました。結局空港の待合室で4時間待ったのですが、その日のスケジュールの都合で折角の遊覧飛行をあきらめた多くの人たちは気の毒でした。



 写真:ヒマラヤ2は、マナスル(
8,163m)、アンナプルナ(8,091m)、ダウラギリ(8,167m)などの名山が連なる中央ネパールのリゾート都市ポカラ郊外の展望台から見たヒマラヤの朝です。ポカラではパイロットと二人乗りのモーターグライダーに乗り、鳥になった気分を味わいました(写真:ヒマラヤ3)。ポカラの標高は800mほどですが、離陸してすぐに4,000mくらいまで上昇し、エンジンを止めてゆっくりと山の近くを舞います。

 2機しかないモーターグライダーを1時間借り切ってアベック飛行したことは一生の思い出になると思います。また一つ夢が叶いました。

 


都丸敬介(
2008.2.10)

 

なんでもマルチメディア(533):バリ島

インドネシアのバリ島で開かれていた、地球温暖化防止を話し合う国際会議COP13が終わりました。この会議の開催地としてなぜバリ島が撰ばれたのか知りませんが、この島の豊かな自然環境自体がいつまでも保たれることを願わずにはいられません。
 学生時代に手に入れた、昭和12年発行の「東印度諸島の怪奇と芸術」という本を読んだときから、いつかは行ってみたいと思っていたバリ島に、1980年代から90年代にかけて国際会議や家族旅行で何度か行きました。
 最初に行ったのは、技術セミナーの講師を頼まれたときでした。そのとき滞在したのは、第2次世界大戦の賠償として日本が建設したホテルでした。まだ、ホテルの外には土産物屋がなかった頃ですが、豊かな自然と伝統的なヒンズー文化を堪能できました。その後は、訪れるたびに急速に進む観光地化を実感しましたが、自然と歴史を背景にした文化は簡単には変わりません。
 ガイドブックにも書かれていますが、インド洋に面した海岸の夕日は感動的です。旅行会社に頼んで、夕日を見るのに適したホテルの部屋をとってもらったことがあります。何もしないで夕日を見ているのは最高の贅沢の一つかもしれません。我が家の玄関には、羽を広げたガルーダを頭に乗せた少女の、黒檀の置物があります。これを見るとバリ島を思い出します。ガルーダはインドネシアのシンボルです。
都丸敬介(2007.12.16)

なんでもマルチメディア(526):階段

写真1.jpg家の近くの散歩道に40段ほどの石段があります。この石段を登るとその日の体調がよく分かります。山形の山寺や金比羅宮を始めとして、多くの神社仏閣に長い石段あるいは階段があり、これを登りつめると必ず素晴らしい光景が見られます。これは日本国内だけのことでなく、海外でも印象に残っている階段が少なからずあります。
 これまでに経験した最も急な階段は、カンボジアのアンコールワットのものです(写真1)。
傾斜が急なだけではなく、一段の幅が足の長さよりも短いので、かなり危険です。この階段がある、アンコールワットの中心にある建物の外には、滑落に備えて救急車が待機しています。
 写真2は莫高窟千仏洞で有名な中国の敦煌の郊外にある「鳴沙山」に登る階段です。さらさらした砂山に、梯子を置いたものです。登りにはこの階段を使いますが、降りるときは砂を滑るのが快適です。有料の簡単なそりも用意されています。この砂山の頂上は夕日を見るのに絶好の場所です。
 中国の西安にある、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を収めた大雁塔は7層の塔で、最上階まで登る階段の段数は般若心経の文字数と同じだそうです。自分で数えたわけではないので、本当かどうかは分かりません。最上階からの眺望は雄大です。
 若い頃は頻繁に山登りをしていたので、今でも石段や階段を登ることに心理的な抵抗はありませんが、加齢とともにバランス感覚が悪くなり、不安定になってきたことを感じます。それでも、階段を登ることで得られる楽しみをいつまでも味わいたいと思います。都丸敬介(2007.10.14)
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なんでもマルチメディア(516):北フランス旅行記(6)

6月15日(金)
朝9時にホテルを出発。ホテルの正面に虹が出て、やがて雨になった。
カンペールはパリのモンパルナス駅から出ているTGVの終着点。17世紀に始まった陶器のカンペール焼きが有名だという。ホテルの近くにあるカンペール焼きの工房を見学。製品の年産20万個の中規模の量産工場で、技術的にもデザイン的にも特に優れているとも思えない。絵柄にブルターニュ地方の地域性が見られるのが特徴かもしれない。原料の土は南仏から運んでいるという。
コンカルノーで港に突き出た城壁の一部を歩いた後、旧市街を歩いた。
ポンタヴァン(Pont Aven)で、ゴーギャンの絵のモデルになったというキリスト像があるトレマロ礼拝堂を探して、30分以上も雨の中を歩き回った。木製の「黄色いキリスト」は小さな暗い煉瓦積み礼拝堂の側面の壁に掲げられていた。
カルナック(Carnac)で昼食を済ませてから有名な先史時代のカルナック巨石群を見た。細長い草原に約3,000の巨石が4kmにわたって行列して立っている。周囲には柵が設けられていて、ガイドなしでは敷地内に入れない。
イギリスのストーン・ヘンジとは全く異なる形態であり、構築した目的が違うのだろう。ブルターニュ地方にはこの他にもいろいろな巨石遺跡があるという。
カンペールに戻り、町の中心のサン・コランタン大聖堂を見てホテルに戻った。
6月16日(土)
朝9時に出発。レンヌまで200kmの道を、一回トイレ休憩しただけで走る。そば粉のクレープ「ガレット」とシードルの昼食。サン・ピエール大聖堂や町の中心部を散策。
16時5分にTGVでレンヌ発を出発して帰路についた。明日はパリの休日。
都丸敬介(2007.7.30)
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なんでもマルチメディア(515):北フランス旅行記(5)

6月14日(木)
朝7時半出発。ブルターニュ地方の北西部に広がるアレー丘陵の北縁を一路西に向かって走る。ゆるやかな起伏の森や畑が美しい。
ブルターニュ最西部の町ブレストの手前50kmほどの場所にあるギミリオ(Guimiliau)とサン・テゴネック(Saint-Thegonnec)の2箇所で、中世の教会を見学。教会の建物や墓地をまとめて聖堂囲い地というらしい。
教会の庭にある、カルヴェール(Calvaire)という、聖書の物語を解説した石の彫刻が面白い。聖書を読めない人たちに説明するために作られたもので、紙芝居の絵をつなぎ合わせたような絵物語になっている。人物の表情が軟らかい。カルヴェールの語源は、キリスト受難の地とされているゴルゴダの丘である。教会内陣の飾りも見事で、大衆に根付いた宗教を実感する。
昼食後、フランス最西端のラ岬(ラー岬、またはラズ岬、pointe-du-Raz)に行った。駐車場から岬の突端までは1kmほどある。草原と灌木に覆われた岬には軍の監視塔があり、岬から少し離れた小島に灯台が建っていた。この地域の県名はフィ二ステール(最果ての地)だという。
歩き始めたときに雨が降り始めた。大西洋から吹き付ける横殴りの雨の中をしばらく歩く。雨は20分ほどでおさまった。駐車場と監視塔の間に10分間隔で無料の電気バスが運行されているが、帰路も花を見ながら歩いた。この岬には年間100万人の観光客が訪れるという。
午後6時頃、ブルターニュ地方最大の町カンペールのホテル「オセアニア」に到着。町の中心から少し離れた高台の森の中にある。
都丸敬介(2007.7.25)
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なんでもマルチメディア(514):北フランス旅行記(4)

6月13日(水)
朝食後、バスでモン・サン・ミッシェルの島の入口まで行き島内を見学。テレビのコマーシャルで毎日のように目にしているピラミッド状に積み重なった修道院の最上部まで行った。日本人の世界文化遺産人気調査では、モン・サン・ミッシェルはトップ3に入っているという。
島の最下部にある入口を入ると、目抜き通りの狭い坂道の両側に、土産物屋やレストランがひしめいている。修道院の入口の手前に以前は学校だった建物がある。現在は島内の居住者が数十人しかいないので、学校は廃止されたという。立体的に構築された修道院の内部は迷路のように複雑で、よく作ったものだと感心した。
干満の差が大きいことで有名な島を取り巻く海は、干潮のためかかなり後退していた。陸地と島をつなぐ道路を造ったことで、潮の流れが大きく変わったために、道路を撤去して橋にする計画があるが、なかなか実現しないらしい。
宿泊したホテルの隣にある「ホテル・メルキュール」で名物のオムレツと子羊の昼食。衰弱しきった巡礼者のために用意されたというオムレツは泡だったクリームのようだった。日本食だと重湯かお粥といったところだろう。
昼食中に雨が降り始め、宿泊地のサン・マロに移動する間にかなり強くなった。午後2時サン・マロ到着。サン・ヴァンサン大聖堂を見てから町を取り囲む城壁を歩いた。雨が止まないのが残念だが岩場が美しかった。
ホテルは城壁の外の海岸に面したリゾートホテル「エスカール・オセアニア」。ホテルの前の道路を横切ると、砂浜に降りられる。道路沿いにホテルが並んでいるが、豪華さはなく、庶民的な海水浴場という感じ。
都丸敬介(2007.7.23)
モンサンミシェル
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サンマロ
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なんでもマルチメディア(513):北フランス旅行記(3)

6月12日(火)
朝8時半にホテルをチェックアウトして出発。昨日通過したオンフルールの港と中世に建てられたサント・カトリーヌ教会を見学。広場を挟んで鐘楼と向かい合っているこの教会は、船大工の手作りで、素朴ながっしりした木造。
ヨットハーバーの入口に回転木馬がある。回転木馬は町の中心に欠かせないものらしい。ヨットハーバーに出入りする船のために、道路が開閉橋になっている。しばらく眺めていると、入港してきたヨットのために、開閉橋が垂直に立ち上がった。
バイユーで、幅50cm、長さ70mの絵巻物のタピストリーを見た。物語の内容は、11世紀のノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服記。日本語の音声ガイドで個々の画面の解説を聞くことができた。
バイユーの大聖堂は規模が大きいが、特に印象に残ることはなかった。
昼食後、1944年にノルマンディー上陸作戦が行われたアロマンシェ(Arromannches)で上陸博物館を見学。海上に散在する、軍用物資陸揚げのために作られた臨時港の構築機材の残骸は、この作戦の規模を物語っている。博物館の入口に掲げられた「6 JUIN 1944 D DAY」の表示がこの博物館の存在意義を端的に示している。参観者はかなり多く、いろいろな国の言葉が耳に入った。
午後6時半にモン・サン・ミッシェルのホテル「ルレ・サン・ミッシェル」に到着。快晴で、部屋の正面にモン・サン・ミッシェルの全景が広がっている。
ホテルから島までは1km。夕食後9時頃ホテルから島の入口まで散策。夕日が美しい。10時過ぎに日没。ライトアップされた教会の建物が浮かび上がったのは11時頃だった。
都丸敬介(2007.7.19)
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なんでもマルチメディア(512):北フランス旅行記(2)

6月11日(月)
朝9時に出発。オンフルールを通過して、セーヌ川河口のノルマンディー橋を渡り、海岸の町エトルタに着く。霧が濃く眺望は良くない。エトルタは印象派の巨匠モネが断崖の絵を描いた場所として知られているらしいが、よく整備された海水浴場だ。
逗子湾に似た、長さが1km程度の砂浜の両端に切り立った断崖がある。海に向かって右手の断崖の上にある小さな教会まで急な坂道を登ったが、ますます霧が濃くなった。昼食の時間まで海岸のベンチでのんびりした時間を過ごした。
セーヌ川河口の町ル・アーブルで、広い砂浜を見てから、歩いて10分ばかりの町中にあるサン・ジョセフ教会を見学。この教会を中心とする整然とした町並みは1950年代に造られたもので、世界遺産に登録された近代都市の第1号だという。教会は市庁舎かと思うような高層建築に見えるが、中は吹き抜けの高い塔で、窓にはステンドグラスがはめられている。
ドーヴィルのホテルに戻り、午後7時頃夕食に外出。海岸のシーフード・レストランに行ったが、土曜日以外は夕食を営業していなかった。市内中心にある噴水を正面にしたレストランで、路上のテーブルに着いて食事を待っていると、パトカーに先導された自転車レースが始まった。市内周回レースで、40〜50人程度の選手が10回ほど目の前を通り過ぎた。途中棄権をしたり、沿道の知人と話をしている選手がいたが、3周ほど遅れて走り続けた選手もいた。
都丸敬介(2007.7.16)
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なんでもマルチメディア(511):北フランス旅行記(1)

先月回ってきた、北フランスのノルマンディー地方とブルターニュ地方の旅行記録をお届けします。
6月10日(日)
昨日、成田空港11時10分発のJL405便に乗り、午後4時15分にシャルル・ド・ゴール空港着。空港からバスで宿泊地のルーアンに直接向かった。パリ〜ルーアンは約150kmあるが2時間弱で到着。セーヌ川がすぐ近くを流れていて、旧市街の中心に近いメルキュール・シャン・ド・マルス・ホテルに投宿した。
9時出発。パリから来た道を60kmほど戻って幹線から離れ、ジベルニーでモネの家と庭園を見学。有名な睡蓮の池と花壇はきれいに手入れされていて気持ちがよい。数年前に開かれた浜名湖花博の「モネの家と庭園」は忠実な模倣だったことがよく分かったが、現物の規模はかなり大きい。
ルーアンに戻り、旧市街の中心を観光。ジャンヌ・ダルクが処刑された場所にちなんだ、モダンな外見のジャンヌ・ダルク教会に隣接した市場はあまり広くないが、魚や果物、チーズなどの商品が豊富にある。市場近くに回転木馬があった。
昼食後、ノートルダム大聖堂や旧市内を歩いて回った。大聖堂は堂々としていて、ステンドグラスが素晴らしい。木骨組の家が良く保存されている。ジャンヌ・ダルク教会はクラシック音楽の演奏会の最中で、裏口から覗くことしかできなかった。
夕方、イギリス海峡に面したドーヴィルのホテル「ノルマンディー・バリエール」に到着。ドーヴィルは南フランスのニースに似た高級リゾート地。宿泊したホテルは堂々とした快適な雰囲気で、夕食はジャケット着用。隣接して大きなカジノがある。
部屋の前に20面のよく手入れされたアンツーカのテニスコートがあり、その先に広い砂浜が広がっている。夜10時近く、海岸で、正面の海に沈む雄大な日没を見た。
都丸敬介(2007.7.10)
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なんでもマルチメディア(510):北フランスの旅

6月9日に出発して、フランス北部のノルマンディー地方とブルターニュ地方をゆっくり回ってきました。ブルターニュ地方西部のイギリス海峡に面したラニヨンにあるフランステレコムの研究所に何度か行ったことがあり、この地方の美しさと歴史に興味がありましたが、交通が不便な地方なので、なかなか計画がまとまりませんでした。
 こんな想いを満たすツアーの企画書が旅行会社から送られてきたので、迷わずに参加しました。到着したパリの空港から直接ブルターニュ地方のルーアンに行き、ルアーブル、モン・サン・ミッシェル、サンマロを経てブルターニュ地方に入り、大西洋に面した西端のラー岬やカルナックの先史時代の巨石遺跡を見ることができました。
 参加人員は8夫婦+単独参加女性2名の総勢18名で、男性8名のうち6名が昭和一桁生まれでした。このツアーは企画した旅行会社の実施第一号で、ツアー・コンダクター自身が初めて体験した場所もあり、いくつかのハプニングがありましたが、楽しい旅行でした。
 1944年のノルマンディー上陸作戦が行われたアロマンシュで見学した上陸博物館と、美しい砂浜や沖合に広がる上陸作戦の名残は、全く予備知識がなかったので強い印象を受けました。
上陸作戦に必要な軍用物資を陸揚げするために、短期間で構築した巨大な臨時港の残骸(写真)は、この作戦の規模を物語っています。失敗が許されない戦争という巨大プロジェクトを成功させた、綿密な計画と準備そして実行の経緯は、現在の大規模プロジェクトの規範として参考になります。博物館の入口に掲げられた「6 JUIN 1944 D DAY」の表示がこの博物館の存在意義を端的に示しています。かなり多くの見学者があり、いろいろな国の言葉が耳に入りました。
都丸敬介(2007.6.30)
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