なんでもマルチメディア(506):中国のロロ族

本箱の中で長い間眠っていた本を取り出して読むと、思いがけない発見があり、時間を忘れてのめり込むことがよくあります。今読んでいるのは、1968年に白水社が発行した、西域探検紀行全集の中の「ドロール著:シナ奥地を行く」です。ドロールはフランスの軍人で、この本は1906年の調査探検記録です。ヴェトナムのハノイから入り、雲南省の昆明から北上して四川省を通って、チベットに至るという長いコースをたどっています。
 雲南省から四川省にかけて通過したところはロロ人の国です。ロロ人あるいはロロ族という名前を聞いたことがなかったので、インターネットで調べてみましたが、現在の中国の状況は分かりませんでした。1990年の推定で、中国に約660万人いるようです。
 この探検が行われた一世紀前、ロロ族の社会にはインドのカースト制度に似た階級制度があり、それ以前から独自の文字文化をもっていたということです。現在はどうなっているのか興味深いことです。
 近代的な交通手段や電気通信手段がなかった時代の探検記録を読むと、優れた探検家たちの知力や想像力、行動力、忍耐力、などに感服します。実際の行動は真似できませんが、この人たちの行動の源泉にあったであろう好奇心は共有したいことです。
都丸敬介(2007.5.6)

なんでもマルチメディア(504):パリのメーデー

間もなく5月になります。5月が近づくとパリで出会ったメーデーのシーンを思い出します。1980年代の最後の頃、ゴールデンウィークの連休を利用して家族でパリに遊びに行きました。
5月1日のメーデーの日だということが全く念頭になく、シャンゼリゼ通りからルーブル美術館に歩いて行ったところ、コンコルド広場からチュイルリー庭園に入るところで、大群衆にはばまれて身動きが取れなくなりました。チュイルリーがメーデーの中央会場だったのです。とまどってうろうろしている間に、ルーブル美術館は休館になっていること、チュイルリーの脇の地下鉄駅は閉鎖されていることなどが分かってきました。そこで、メーデーを見物することにしました。
 1960年代には、労働組合から動員されて、何度か東京のメーデー中央会場に行ったことがありますが、パリのメーデーの雰囲気は東京とは全く違っていました。会場の中央で繰り返されている音楽が、ベートーベンの第9交響曲の歓喜の歌だったことが印象的でした。
 現在のシラク大統領はまだ大統領になっていなかった時代ですが、いたるところで「シラク、シラク」の大合唱がわき上がっていました。当時はシラクという名前も知りませんでしたが、フランスの大衆のエネルギーを強く感じました。
 間もなく引退するシラク大統領の後任の選挙戦が熱を帯びています。今年のパリのメーデーはどんな雰囲気なのか見たい気がします。
都丸敬介(2007.4.16)

なんでもマルチメディア(498):故宮博物院

今月(2007年2月)8日に、台北にある故宮博物院の大改修が終わって公開されたことが報道されました。この博物院は世界四大博物館の一つといわれているそうですが、そのような肩書きを知らなくても、中に入るとそのすばらしさに圧倒されます。65万点あるという収蔵物は、内戦で敗退した国民党が北京の故宮博物院から運んだものですが、これだけのものをよくも運んだと驚きます。
 以前拝観したときの展示品は、陶磁器や絵画が多かったように覚えています。骨董屋の店先にあれば一つだけでも人目を引きそうな、美しい青磁や白磁の作品が何十も並んでいたのは壮観でした。このような展示物を北京の故宮博物院では見かけませんが、北京のほうには、運べなかったのではないかと思える大きな展示物がいくつもあります。両方の博物院を見比べると、歴史の流れを強く感じます。
北京の故宮は昔の紫禁城そのものなので、建物自体が素晴らしい文化遺産です。台北の故宮博物院は20世紀に博物館として建築されたものですから、北京の故宮と比較することは意味がありませんが、これも素晴らしい建造物です。
たっぷり時間をとって、もう一度台北の故宮博物院を見たくなりました。
都丸敬介(2007.2.18)

なんでもマルチメディア(497):南房総の花畑

今月に入ってから毎日のように、どこかのテレビ局で南房総の花畑の旅番組を放映しています。昨日(2月11日)は無風、快晴の行楽日和だったので、私も館山近辺の花を見に行ってきました。私の家から、久里浜の東京湾フェリー乗り場まで、車で30分程度で行けるのですが、混んでいて、約40分間隔で運行しているフェリーに乗るのに1時間半以上待たされました。
フェリーの房総半島側発着所がある金谷のすぐ近くにスイセンの里というひなびた集落があります。斜面を横切る、乗用車がすれ違うのに苦労するほどの幅の道に沿って、延々とスイセンが連なっています。花はまだ咲いていますが、みな盛りを過ぎて、黄色が茶色に変色していました。人出は少なく、のんびりと空気を楽しんでいるように見えました。
 房総半島最南端の海岸に沿った房総フラワーラインは立派なドライブ道路です。道沿いに約1km離れて「館山ファミリーパーク」と「南房パラダイス」という二つの大きなテーマパークがあります。館山ファミリーパークは駐車場が満杯で入れませんでしたが、南房パラダイスをゆっくり楽しみました。ここはシンガポールの国立植物園と姉妹提携をしているとのことで、園内に入るとすぐに、シンガポールの海岸にある有名なマーライオンのレプリカが立っています。園内には、花壇のほかに連絡通路でつながれた11の温室があります。全長が300mだそうです。サボテンの温室の大きなサボテンは見事でした。ラン園は、シンガポールのラン園のほんの一部の規模です。熱帯植物園を楽しむのであれば、その国に行かなければならないということを改めて認識しました。
 フラワーラインのあたりには、花摘み農園が点在しています。帰路は車の中が花の香りで一杯になりました。皆さんに花の香りを送れないのが残念です。
都丸敬介(2007.2.12)

なんでもマルチメディア(495):シニアの海外旅行

今年頂戴した年賀状の中に、海外旅行の写真や体験談がかなりありました。同年代の友人と共有できる情報が増え続けるのは楽しいことです。このメールを配送しているハンドレッドクラブのメーリングリストを利用して、ハンドレッドクラブの会員の皆さんからも、海外旅行のことや身近なできごとのお話を聞かせて頂きたいと願います。
 昨夜のテレビで放映された、1977年に制作された「007私を愛したスパイ」を見ていて、ライトアップされたスフィンクスがエジプト古代史を語る場面や、カルナック神殿の巨大な石柱群がロケの道具に使われていたことを思い出しました。カルナック神殿はアガサ・クリスティー原作の「ナイルに死す」の映画の中にも出てきます。
夜、スフィンクスの前の広場に並べられた椅子に座して、エジプト古代史のショーを見たことがあります。足下から伝わってくる寒さに耐えられなくなり、大半の観客はショーの途中で引き上げていきました。翌日の昼間、改めてスフィンクスの写真を撮りに行ったときは焼けるような暑さで、砂漠の温度差の激しさを実感しました。
 当たり前のことですが、海外旅行の楽しさは体調に大きく左右されます。旅行先で同年代の70代の人と知り合うことがときどきありますが、みな元気です。それでも話を聞くと、大病を患って回復に努力したという人が少なくありません。海外旅行を楽しみたいという目的のために体調を整えることは、日常生活にもプラスになることです。
 今年はどこに行こうかと考えながら体を動かしています。
都丸敬介(2007.1.22)

なんでもマルチメディア(488):モンゴルの祭典

堺屋太一氏が日本経済新聞に連載している「世界を創った男:チンギス・ハン」の今朝(2006年11月27日)の掲載部分に、モンゴルの夏の祭典「ナーダム祭」と同じシーンが描かれていました。書かれていることが史実のとおりだとすると、現在の祭典の原型が800年前に遡ることになります。これは大変なことです。
 このときの競馬の「六馬行程(36キロ)を駆け抜ける長距離レースだ。出場者は十歳から十五歳までの少年少女(原文のまま)」という記述は、現在のナーダム祭の競馬と同じです。現在の競馬が故事を再現したのかもしれませんが、このスケールが大きいイベントを実行できる環境が保たれているのは素晴らしいことです。
 ゴールの近くに陣取って待つこと1時間ばかり、草原の遙か彼方にかすかな砂埃が見えてから、しばらくして目の前を馬が駆け抜ける情景を、機会があればもう一度味わいたいと思います。
 「少年力士百人ほどが入場する。祭は例年通り少年相撲から成人相撲へと進む(原文のまま)」という記述にあるモンゴル相撲の伝統が、日本の大相撲でのモンゴル力士の活躍につながっているのかと考えると、おおらかな気持ちになります。
 未知の国に旅行に出かけると物珍しさが先に立ちますが、モンゴルではなぜか懐かしさを感じました。同じような感覚を東南アジアのいくつかの場所でも体験しました。
都丸敬介(2006.11.27)

なんでもマルチメディア(487):ミャンマーの供養

なんでもマルチメディア(487):ミャンマーの供養
 今年も年末が近づき、喪中欠礼のはがきを何通か受け取りました。今年ミャンマー旅行をしたときに、ガイドさんに他界した人たちの供養をどのようにしているのか質問したところ、意外な説明を受けました。
 ミャンマーは敬虔な仏教国ですが、墓も家の仏壇ないというのです。葬式が終わって遺灰を散布した時点で、亡くなった人とは完全に別れてしまい、その後の供養は行わないというのです。このような習わしが全国的なことなのか、隣接している仏教国ではどうなのか、といったことを調べてないので、これ以上の情報はありませんが、興味深いことです。
 これと対称的なのがインドネシアのバリ島です。バリ島にはイスラム教徒に追われて逃げ込んだヒンズー教徒が、長年の鎖国時代に作り上げた習慣が根付いていて、どこの家にも祖先を祭る祠があり、毎日食べ物や花が供えられています。
 日頃はあまり気にしていないことでも、旅先で未知の文化や生活習慣に出会うと強い印象を受けます。これが海外旅行の大きな楽しみです。だからといって、旅行に出かける前に旅先のことをいろいろ調べているわけではありません。ミャンマーやバリ島の見聞を思い出しながら、次はどこに行こうかと考えています。
都丸敬介(2006.11.20)

なんでもマルチメディア(475):イスラエルの思い出

イスラエルとヒズボラの意味がない(と思われる)戦争が、つかの間の沈静状態に入ったのはよいけれど、まだ危ない状態が続いていることに胸が痛みます。
 1988年にテルアヴィブで、コンピューター・ネットワーク技術を主題とする、大規模の国際会議が開かれました。いまから振り返ると、この時期はイスラエルが平和国家としての本格的な歩みを始めたと考えられていたときでした。会議の開会式で、主催者が「イスラエルもこのような会議を主催できるようになった」と挨拶し、ステージでハープとフルートの演奏が行われました。
 過日、ヒズボラのロケット弾が着弾した、レバノンに近い先端工業都市ハイファを訪問したときのことです。若い女性の案内者から受けた、これからの国造りの熱心な説明を今でも思い出します。沙漠を農耕地に変えるために、国のリーダーは最初に松の木の大規模な植林をしたというのです。松は荒れ地でも根がつきやすいのがその理由です。最初の植林から20年くらいたって、松の落ち葉で土地がいくらか有機質に変わると、松の代わりに樫の木を植えます。100年くらいたつと、立派な森になって、森の周囲も豊かな農耕地になるはずだという説明でした。
 テルアヴィブとハイファの間に、古代ローマ人が建設した、煉瓦積みの大きな水道の遺跡があります。ローマ人はこうした立派な設備を作ったけれども、その後で侵攻してきたトルコ人がみな破壊してしまった。だからトルコ人は大嫌いだというのです。100年単位で数える昔の出来事をつい最近のことのように話した若い世代の人たちが、その後どうなったのか気にかかります。
 イスラエルは、機会があればもう一度訪ねてみたい国です。
都丸敬介(2006.08.28)

なんでもマルチメディア(456):ミャンマー旅行記(6)

3月21日(火)ヤンゴン(2)
 今回の旅行を締めくくるミャンマーのハイライト、ヤンゴン市内のスーレー・パゴダとシュエダゴン・パゴダを拝観。スーレー・パゴダは高さ46m、シュエダゴン・パゴダは高さ100mの釣り鐘状のパゴダである。(写真)
シュエダゴン・パゴダ.jpg
シュエダゴン・パゴダは小高い丘の上にあり、境内のエレベーターを利用する。巨大なパゴダの周りには、多くの信者が寄進した大小様々のパゴダや仏像が並んでいて壮観である。大理石の床に座って祈る人、花束を供える人、安産を願う人など、この国の人々に根付いている信仰を強く実感する。塔の最上部には76カラットのダイヤモンドを始めとして、7千個を超す宝石が埋め込まれている。肉眼では見えないが、夜ライトアップしたときに輝くダイヤモンドが見える場所が町の中にあるという。
 チャウッターチー・パゴダは比較的新しい。全長70mの全国で三番目の巨大な寝釈迦が、鉄骨組の屋根が付いた格納庫のような建物に収まっている。壁はなく、吹き抜けで涼しいためか、お釈迦様と同じ姿で昼寝をしている人が何人もいる。平和でほほえましい。
 ヤンゴン最大のポーチョーアウンサン・マーケットはイスタンブールやカイロのマーケットと同じような雰囲気で、日用品や土産物などなんでもある。ガイドの女性も小さな店を一軒持っていて、ガイドの仕事がないときは、ここで商売をしているという。ミャンマーの給料は、ヤンゴンの企業に勤めている人の事務職が月額100米ドル、外資系企業社員が300米ドル程度。通貨はチャットだが、どこでも米ドルが使える。
 5時にホテルをチェックアウトして空港に移動。バンコク経由の帰国の途についた。短い期間ではあったが、充実した毎日だった。移動が効率的で、時間に十分なゆとりがあったので、疲れることもなく良い旅だった。
都丸敬介(2006.04.08)

なんでもマルチメディア(455):ミャンマー旅行記(5)

3月19日(日)ヤンゴン(1)
 朝6時過ぎにホテルを出発。双発のプロペラ機で1時間半飛んでヤンゴンに戻った。ヤンゴン空港からは市内ではなく、80kmばかり離れた古都バゴーに直接向かった。道路が広く、車が少ないので快適なドライブが続く。樹齢百年を超える大きな街路樹の間を走るのは気持ちがよい。通過した町や村はどこも清潔で穏やかな感じがする。
 バゴーのシュエモード・パゴダは高さが114mという、ミャンマーで一番高い壮大な金色のパゴダである。1,200年以上前に建立されたときの高さは23mだったのが、改築のたびに高くなったという。現在のものは、1931年に地震で崩れたのを1954年に再建したものである。エジプトのピラミッドは大きな石を積み上げたものだが、ミャンマーのパゴダは小さな煉瓦を積み上げたものだ。この建築技術と努力には強い意志を感じる。(写真)
シュエモード・パゴダ.jpg
全長55mのシュエターリャウン・パゴダの寝釈迦には圧倒された。この寝釈迦は映画「ビルマの竪琴」のロケ地になったという。ミャンマーに来て寝釈迦と涅槃仏の違いを認識した。主な違いは足の組み方と足の裏、そして頭を支える腕の形だという。寝釈迦の足の裏には108の絵が描かれている。(写真)
シュエターリャウン・パゴダの寝釈迦仏.jpg
 チャイプーン・パゴダは東西南北を向いた四体の巨大な座仏である。建物はない。15世紀に建立されたものであるが化粧直しをしているのでピカピカしている。
 ヤンゴンに戻って最初に泊まったセドナ・ホテル・ヤンゴンにチェックイン。インヤー湖畔の市内最高級のレストランで夕食。湖に係留された船を模したレストランで、見学だけでも入場料が必要だという。食事は品数が多いビュッフェスタイル。席はショーの舞台がよく見える良い席だった。ミャンマーの伝統舞踊はタイやインドネシアと似ているが、洗練さでは劣る。ドイツ人やフランス人のグループが目立った。
都丸敬介(2006.04.07)