なんでもマルチメディア(515):北フランス旅行記(5)

6月14日(木)
朝7時半出発。ブルターニュ地方の北西部に広がるアレー丘陵の北縁を一路西に向かって走る。ゆるやかな起伏の森や畑が美しい。
ブルターニュ最西部の町ブレストの手前50kmほどの場所にあるギミリオ(Guimiliau)とサン・テゴネック(Saint-Thegonnec)の2箇所で、中世の教会を見学。教会の建物や墓地をまとめて聖堂囲い地というらしい。
教会の庭にある、カルヴェール(Calvaire)という、聖書の物語を解説した石の彫刻が面白い。聖書を読めない人たちに説明するために作られたもので、紙芝居の絵をつなぎ合わせたような絵物語になっている。人物の表情が軟らかい。カルヴェールの語源は、キリスト受難の地とされているゴルゴダの丘である。教会内陣の飾りも見事で、大衆に根付いた宗教を実感する。
昼食後、フランス最西端のラ岬(ラー岬、またはラズ岬、pointe-du-Raz)に行った。駐車場から岬の突端までは1kmほどある。草原と灌木に覆われた岬には軍の監視塔があり、岬から少し離れた小島に灯台が建っていた。この地域の県名はフィ二ステール(最果ての地)だという。
歩き始めたときに雨が降り始めた。大西洋から吹き付ける横殴りの雨の中をしばらく歩く。雨は20分ほどでおさまった。駐車場と監視塔の間に10分間隔で無料の電気バスが運行されているが、帰路も花を見ながら歩いた。この岬には年間100万人の観光客が訪れるという。
午後6時頃、ブルターニュ地方最大の町カンペールのホテル「オセアニア」に到着。町の中心から少し離れた高台の森の中にある。
都丸敬介(2007.7.25)
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なんでもマルチメディア(514):北フランス旅行記(4)

6月13日(水)
朝食後、バスでモン・サン・ミッシェルの島の入口まで行き島内を見学。テレビのコマーシャルで毎日のように目にしているピラミッド状に積み重なった修道院の最上部まで行った。日本人の世界文化遺産人気調査では、モン・サン・ミッシェルはトップ3に入っているという。
島の最下部にある入口を入ると、目抜き通りの狭い坂道の両側に、土産物屋やレストランがひしめいている。修道院の入口の手前に以前は学校だった建物がある。現在は島内の居住者が数十人しかいないので、学校は廃止されたという。立体的に構築された修道院の内部は迷路のように複雑で、よく作ったものだと感心した。
干満の差が大きいことで有名な島を取り巻く海は、干潮のためかかなり後退していた。陸地と島をつなぐ道路を造ったことで、潮の流れが大きく変わったために、道路を撤去して橋にする計画があるが、なかなか実現しないらしい。
宿泊したホテルの隣にある「ホテル・メルキュール」で名物のオムレツと子羊の昼食。衰弱しきった巡礼者のために用意されたというオムレツは泡だったクリームのようだった。日本食だと重湯かお粥といったところだろう。
昼食中に雨が降り始め、宿泊地のサン・マロに移動する間にかなり強くなった。午後2時サン・マロ到着。サン・ヴァンサン大聖堂を見てから町を取り囲む城壁を歩いた。雨が止まないのが残念だが岩場が美しかった。
ホテルは城壁の外の海岸に面したリゾートホテル「エスカール・オセアニア」。ホテルの前の道路を横切ると、砂浜に降りられる。道路沿いにホテルが並んでいるが、豪華さはなく、庶民的な海水浴場という感じ。
都丸敬介(2007.7.23)
モンサンミシェル
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サンマロ
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なんでもマルチメディア(513):北フランス旅行記(3)

6月12日(火)
朝8時半にホテルをチェックアウトして出発。昨日通過したオンフルールの港と中世に建てられたサント・カトリーヌ教会を見学。広場を挟んで鐘楼と向かい合っているこの教会は、船大工の手作りで、素朴ながっしりした木造。
ヨットハーバーの入口に回転木馬がある。回転木馬は町の中心に欠かせないものらしい。ヨットハーバーに出入りする船のために、道路が開閉橋になっている。しばらく眺めていると、入港してきたヨットのために、開閉橋が垂直に立ち上がった。
バイユーで、幅50cm、長さ70mの絵巻物のタピストリーを見た。物語の内容は、11世紀のノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服記。日本語の音声ガイドで個々の画面の解説を聞くことができた。
バイユーの大聖堂は規模が大きいが、特に印象に残ることはなかった。
昼食後、1944年にノルマンディー上陸作戦が行われたアロマンシェ(Arromannches)で上陸博物館を見学。海上に散在する、軍用物資陸揚げのために作られた臨時港の構築機材の残骸は、この作戦の規模を物語っている。博物館の入口に掲げられた「6 JUIN 1944 D DAY」の表示がこの博物館の存在意義を端的に示している。参観者はかなり多く、いろいろな国の言葉が耳に入った。
午後6時半にモン・サン・ミッシェルのホテル「ルレ・サン・ミッシェル」に到着。快晴で、部屋の正面にモン・サン・ミッシェルの全景が広がっている。
ホテルから島までは1km。夕食後9時頃ホテルから島の入口まで散策。夕日が美しい。10時過ぎに日没。ライトアップされた教会の建物が浮かび上がったのは11時頃だった。
都丸敬介(2007.7.19)
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なんでもマルチメディア(512):北フランス旅行記(2)

6月11日(月)
朝9時に出発。オンフルールを通過して、セーヌ川河口のノルマンディー橋を渡り、海岸の町エトルタに着く。霧が濃く眺望は良くない。エトルタは印象派の巨匠モネが断崖の絵を描いた場所として知られているらしいが、よく整備された海水浴場だ。
逗子湾に似た、長さが1km程度の砂浜の両端に切り立った断崖がある。海に向かって右手の断崖の上にある小さな教会まで急な坂道を登ったが、ますます霧が濃くなった。昼食の時間まで海岸のベンチでのんびりした時間を過ごした。
セーヌ川河口の町ル・アーブルで、広い砂浜を見てから、歩いて10分ばかりの町中にあるサン・ジョセフ教会を見学。この教会を中心とする整然とした町並みは1950年代に造られたもので、世界遺産に登録された近代都市の第1号だという。教会は市庁舎かと思うような高層建築に見えるが、中は吹き抜けの高い塔で、窓にはステンドグラスがはめられている。
ドーヴィルのホテルに戻り、午後7時頃夕食に外出。海岸のシーフード・レストランに行ったが、土曜日以外は夕食を営業していなかった。市内中心にある噴水を正面にしたレストランで、路上のテーブルに着いて食事を待っていると、パトカーに先導された自転車レースが始まった。市内周回レースで、40〜50人程度の選手が10回ほど目の前を通り過ぎた。途中棄権をしたり、沿道の知人と話をしている選手がいたが、3周ほど遅れて走り続けた選手もいた。
都丸敬介(2007.7.16)
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なんでもマルチメディア(511):北フランス旅行記(1)

先月回ってきた、北フランスのノルマンディー地方とブルターニュ地方の旅行記録をお届けします。
6月10日(日)
昨日、成田空港11時10分発のJL405便に乗り、午後4時15分にシャルル・ド・ゴール空港着。空港からバスで宿泊地のルーアンに直接向かった。パリ〜ルーアンは約150kmあるが2時間弱で到着。セーヌ川がすぐ近くを流れていて、旧市街の中心に近いメルキュール・シャン・ド・マルス・ホテルに投宿した。
9時出発。パリから来た道を60kmほど戻って幹線から離れ、ジベルニーでモネの家と庭園を見学。有名な睡蓮の池と花壇はきれいに手入れされていて気持ちがよい。数年前に開かれた浜名湖花博の「モネの家と庭園」は忠実な模倣だったことがよく分かったが、現物の規模はかなり大きい。
ルーアンに戻り、旧市街の中心を観光。ジャンヌ・ダルクが処刑された場所にちなんだ、モダンな外見のジャンヌ・ダルク教会に隣接した市場はあまり広くないが、魚や果物、チーズなどの商品が豊富にある。市場近くに回転木馬があった。
昼食後、ノートルダム大聖堂や旧市内を歩いて回った。大聖堂は堂々としていて、ステンドグラスが素晴らしい。木骨組の家が良く保存されている。ジャンヌ・ダルク教会はクラシック音楽の演奏会の最中で、裏口から覗くことしかできなかった。
夕方、イギリス海峡に面したドーヴィルのホテル「ノルマンディー・バリエール」に到着。ドーヴィルは南フランスのニースに似た高級リゾート地。宿泊したホテルは堂々とした快適な雰囲気で、夕食はジャケット着用。隣接して大きなカジノがある。
部屋の前に20面のよく手入れされたアンツーカのテニスコートがあり、その先に広い砂浜が広がっている。夜10時近く、海岸で、正面の海に沈む雄大な日没を見た。
都丸敬介(2007.7.10)
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なんでもマルチメディア(510):北フランスの旅

6月9日に出発して、フランス北部のノルマンディー地方とブルターニュ地方をゆっくり回ってきました。ブルターニュ地方西部のイギリス海峡に面したラニヨンにあるフランステレコムの研究所に何度か行ったことがあり、この地方の美しさと歴史に興味がありましたが、交通が不便な地方なので、なかなか計画がまとまりませんでした。
 こんな想いを満たすツアーの企画書が旅行会社から送られてきたので、迷わずに参加しました。到着したパリの空港から直接ブルターニュ地方のルーアンに行き、ルアーブル、モン・サン・ミッシェル、サンマロを経てブルターニュ地方に入り、大西洋に面した西端のラー岬やカルナックの先史時代の巨石遺跡を見ることができました。
 参加人員は8夫婦+単独参加女性2名の総勢18名で、男性8名のうち6名が昭和一桁生まれでした。このツアーは企画した旅行会社の実施第一号で、ツアー・コンダクター自身が初めて体験した場所もあり、いくつかのハプニングがありましたが、楽しい旅行でした。
 1944年のノルマンディー上陸作戦が行われたアロマンシュで見学した上陸博物館と、美しい砂浜や沖合に広がる上陸作戦の名残は、全く予備知識がなかったので強い印象を受けました。
上陸作戦に必要な軍用物資を陸揚げするために、短期間で構築した巨大な臨時港の残骸(写真)は、この作戦の規模を物語っています。失敗が許されない戦争という巨大プロジェクトを成功させた、綿密な計画と準備そして実行の経緯は、現在の大規模プロジェクトの規範として参考になります。博物館の入口に掲げられた「6 JUIN 1944 D DAY」の表示がこの博物館の存在意義を端的に示しています。かなり多くの見学者があり、いろいろな国の言葉が耳に入りました。
都丸敬介(2007.6.30)
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なんでもマルチメディア(509):情報通信システムの信頼性

通信事業者や航空会社などの社会を支える企業で、サービスに直結する情報通信システムの長時間障害が続いています。新聞報道によると、5月23日にNTTグループで発生したIP電話サービスの長時間障害の原因は、 設備に対する命令を大文字入力すべきところ、小文字入力したためだったということです。マニュアルには小文字の使用を禁止することが書かれていたけれども、誤入力を検出して警告を出す機能がなかったというのですから、誤入力をした人以上に、このようなシステムを提供したシステム設計者の資質が問われます。
 こうした些細な人為的なミスが大きなシステム障害を引き起こした事例は多数あります。そして、過去の経験に基づくシステムの信頼性や安全性設計の方法が技術教科書に記されています。それにも関わらず大きなシステム障害がなくならないのは困ったことです。
故障や異常動作が発生したときの安全性を考慮したフォールト・トレラント・システムには、フェールセーフ、フェールソフト、フールプルーフなどの動作モードがあります。システム設計では、システムのどの部分あるいはどの機能にはどの動作モードを適用するかを決めます。こうしたことが個々のシステムでどうなっているのかを検証するには大きな労力と知力が必要ですが、問題意識をもっていない人や組織は、いつまでたってもトラブルを防ぐことができません。技術が発達すればするほど、危機管理教育の重要性が大きくなります。
都丸敬介(2007.6.3)

なんでもマルチメディア(508):ザクロ

家の庭に一本のザクロの木があります。今朝、小さな花が開き始めたのに気付きました。この木は30年前に家を建てたとき、昔の部下の父上から贈られたものです。車のトランクに入れて運んできたものが、いまでは高さが6mほどになっています。大きくなりすぎたので3年前に植木屋さんに頼んで、二股に分かれていた幹の一方と太い枝を切り取ったところ、次の年は一つの花も咲きませんでした。昨年はいくつか花が咲いたけれども実にはなりませんでしたが、今朝の花を見て、今年の秋は久しぶりに甘酸っぱい実を口にできそうな予感がしました。
10年ほど前に、家の前を通りかかった老婦人から、実が付いている枝を一本分けてもらえないかと頼まれたことがあります。家で写生をしたいのだということなので、喜んでで差し上げました。その後、いつの間にか顔を見かけなくなりました。
中国・西安市郊外の兵馬俑や始皇帝陵の付近はザクロの名産地です。最初に訪れたときは収穫期で、道ばたに産地直売の露店が連なっていました。昼食のデザートに直径10センチほどのザクロが一個出てきたのには驚きました。花が咲く季節に訪れたときは、期待していたほどには花が目立ちませんでした。
ザクロの花は華やかではありませんが、近づいて見ると良い形をしています。ザクロの木が最も華やぐのは、新芽が葉の形に成長するときです。赤色系の小さくて柔らかい葉が、濃い緑に変わると花が咲き始めます。
都丸敬介(2007.5.22)

なんでもマルチメディア(507):NGNの意義

NTTがNGN(次世代ネットワーク)のフィールドトライアルを始めてから、間もなく5ヶ月になります。1年前と比較すると、NGNをキーワードとする新聞や雑誌の記事がめっきり減りました。NGNは通信事業者のコアネットワーク(基幹ネットワーク)を中心とする設備の技術であり、これを利用するアプリケーションサービスではありません。コアネットワークが変わっても、それによって画期的な新サービスが出現するのでなければ、情報通信サービスの利用者にはその変化が分かりません。
 それでは通信事業者が何故NGNの開発と構築に巨額の投資をするのかというと、サービスコストの大幅な削減と、通信ネットワークの利用方法の多様化に対して迅速かつ柔軟に対応できるようにすることといえます。
 NGNの基本は、電話交換網の技術として確立した回線交換方式を、インターネットの技術として確立したIPパケット交換方式に切り換えることです。輸送網に当てはめると、鉄道網を廃止して自動車網に切り換えることに相当します。鉄道網が衰退して自動車網が発達した最大の理由は利用時の時間や場所の制約が少ないことです。反面、自動車網では渋滞が発生すると目的地に到着するまでの時間が大きくなるというサービス品質の低下が生じます。
 NGNはIPネットワークの弱点であるサービス品質や安定性を固定電話網並みに改善し、さらに利用条件に大きな自由度をもたせるものです。NGNを利用する新しいビジネスを生み出すためにはNGNの仕組みや特徴について理解を深める必要があります。
都丸敬介(2007.5.15)

なんでもマルチメディア(506):中国のロロ族

本箱の中で長い間眠っていた本を取り出して読むと、思いがけない発見があり、時間を忘れてのめり込むことがよくあります。今読んでいるのは、1968年に白水社が発行した、西域探検紀行全集の中の「ドロール著:シナ奥地を行く」です。ドロールはフランスの軍人で、この本は1906年の調査探検記録です。ヴェトナムのハノイから入り、雲南省の昆明から北上して四川省を通って、チベットに至るという長いコースをたどっています。
 雲南省から四川省にかけて通過したところはロロ人の国です。ロロ人あるいはロロ族という名前を聞いたことがなかったので、インターネットで調べてみましたが、現在の中国の状況は分かりませんでした。1990年の推定で、中国に約660万人いるようです。
 この探検が行われた一世紀前、ロロ族の社会にはインドのカースト制度に似た階級制度があり、それ以前から独自の文字文化をもっていたということです。現在はどうなっているのか興味深いことです。
 近代的な交通手段や電気通信手段がなかった時代の探検記録を読むと、優れた探検家たちの知力や想像力、行動力、忍耐力、などに感服します。実際の行動は真似できませんが、この人たちの行動の源泉にあったであろう好奇心は共有したいことです。
都丸敬介(2007.5.6)