なんでもマルチメディア(418):アラスカの旅(1)

アラスカの空気を吸ってきました。アラスカは20年前と比較して、日本からの往来が不便になりましたが良いところです。参考までに最近の状況をお知らせします。
2005年8月26日(水)
 1980年代中頃まで、ヨーロッパ往復にはアラスカのアンカレッジを中継していたが、ヨーロッパ直行便ができてからはアンカレッジを通ることがなくなった。ヨーロッパからの帰路、アラスカ上空で機内から見たオーロラやマッキンレー山を間近に見たいと思っていたが、日本からの直行便がなくなり、アラスカ訪問が遠のいた。ところが、数年前からJALが季節限定でチャーター便を飛ばすようになり、多くの旅行会社がこれを利用するツアーを企画するようになった。その一つ、JALパックのツアーに参加した。
 19時成田発のチャーター便、ボーイング747-400は80%程度座席が埋まっていた。飛行時間は7時間弱。日付変更線を通過したので、出発日の午前8時頃フェアバンクスに到着。入国審査では指紋と顔写真の登録があった。大量の入国者を審査する体制ができていないので、たった1便の入国審査に3時間かかり、出迎えのバスに乗ったときはすでに正午になっていた。機内放送では地上温度6℃ということだったが、寒いという感じはなかった。
グループの総勢は30人強。滞在中の面倒を見てくれるのは、アラスカ在住の日本人女性ガイドのMさん。日本で旅行会社に勤めていたが、アラスカが好きになり、同業だったご主人と結婚してアラスカに住み着いたという。
 昼食前にアラスカ大学の博物館とアラスカ縦断石油パイプラインを見学。博物館は広くはないが、動物の剥製やエスキモーの生活用具などが展示されていた。昼食後ホテルにチェックイン。町の中心部にあるスプリングヒル・スイート・フェアバンクス。部屋の窓から見下ろす場所にフェアバンクス発祥の地ゴールデンハート・パークと遠くの山並みが広がっている。
 夕食後オーロラツアーに出かけた。日没は9時過ぎで、午後10時に集合。車で40分ほどの山中にある日本人Kさん夫妻の手作りロッジでオーロラを待ったが、夕方から広がった雲が晴れず、午前2時過ぎにロッジを引き上げて、3時にホテルに帰着。長い一日だった。
都丸敬介(2005.09.04)

なんでもマルチメディア(410):モンゴルの旅(6)

2004年7月13日(火)
 午前,ウランバートルに戻る。商品が豊富で活気に溢れたスーパーマーケットに案内された。特産のピンクの岩塩を購入。自然史博物館で恐竜の化石などを見た。
 和食レストランで昼食。カシミア工場を見学。ツアーにつきもののショッピングで,5階建ての大きなデパートに案内されたが,格別に興味をひくものはなかった。
 午後6時過ぎ,簡易劇場で歌舞ショーを見た後,隣接した大きなレストランでビュッフェ形式の夕食。ショーはウランバートル・ホテルで見たのと似た内容で,ホテルのほうがよかった。ホテルに戻る途中,市の中央の広場に立ち寄った。北京の天安門広場を小さくしたような感じで,中央に大きな騎馬像が立っている。
2004年7月14日(水)
 朝5時半にホテルを出立し,8時発のMIATモンゴル航空OM501便で帰国の途についた。どこの空港にもある土産物売店の菓子類は,一箱1ドルのゼリー菓子と2ドルのチョコレートだけだった。12時半,定刻に成田空港到着。
モンゴルは何となく懐かしく,安らぎを感じる国だった。
都丸敬介(2005.07.08)

なんでもマルチメディア(409):モンゴルの旅(5)

2004年7月12日(月)
 ウランバートルから北東方向約70kmの山岳保養地テレルジのツーリスト・キャンプに移動。トランクはウランバートル・ホテルに預けて,1泊に必要なものだけを入れたザック1つの軽装。途中,標高2,700mの峠で小休止。眼下にモダンな別荘地域が見えた。峠を下りると国立公園に入る。巨大な岩が重なる山岳地帯の中に,「亀石」という亀の形をした高さ15mの大きな岩がある(写真)。このあたりは,草の中にエーデルワイスを始めとするいろいろな高山植物が咲いている。エーデルワイスはモンゴルの国花である。
 10時にテレルジ・ヒロタというツーリスト・キャンプに着いた。ゲルのほかに木造のロッジや,ホテル,レストラン棟などがある。先着のグループが馬に乗っていた。
 馬の世話や,キャンプの管理をしている人のゲルを訪ねた。ツーリスト・キャンプから電気が引かれていて,ゲルの中にはテレビ,冷蔵庫,電子レンジがあった。馬乳酒とこれを蒸留した強い酒を振る舞われたが,においが強烈だった。大鍋で煮たヨーグルトはおいしかった。
 キャンプの食堂で昼食をとった後,近くの尾根に登った。尾根の反対側は眼下に川が流れ,映画「サウンド・オブ・ミュージック」の風景を彷彿とさせる。高山植物の種類も多い。尾根にいる間に雷が鳴り,黒雲が広がった。ゲルに戻るとすぐに雨が降り始めた。テントの上をはねる雨の音が懐かしい。
 午後7時,レストラン棟のテレビでナーダム祭の相撲トーナメントの準決勝を見ていると,ガイドのナサさんの友人が近くの森の中でキャンプをしているので,そこで夕食にしようということになった。10mほどの幅の橋がない川を渡らなければならなかったが,ナサさんの友人たちが背負ってくれた。行きは何事もなかったが,帰りは妻を背負った立派な体格の若者が川の中で転倒してびしょ濡れになった。ゲルに戻ってからストーブでがんがん薪を燃やして濡れた衣服を乾かした。薪がパチパチはぜる音が心地よい。
 夜12時前,駐車場の電灯が明るかったが,それでも頭の真上を流れる大きな天の川と,懐かしい多くの星がよく見えた。
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都丸敬介(2005.07.07)

なんでもマルチメディア(408):モンゴルの旅(4)

2004年7月11日(日)
 有名なモンゴルの夏の祭典「ナーダム祭」を見た。全国唯一のスタジアムで11時から開会式。騎馬民族らしい騎馬隊による旗の入場から始まり,大統領の開会挨拶,いろいろなマスゲームや民族音楽の演奏などがあった。
 開会式の後,グランドではモンゴル相撲が始まった。参加選手5百人強のトーナメント。グランドで多数の試合が同時に進む。モンゴル相撲は土俵がなく,相手を倒して膝か背中を土につけると勝つ。実力が伯仲するトーナメントの最終段階では,力士が互いに有利な体勢をとろうとして30分以上も経過する試合が続く。一定の時間がたっても勝負がつかないと,審判が中に入って力士を組ませる。こうなると数分で勝負がつく。試合前と,試合後の勝者の儀式が面白い。2日間にわたるトーナメントの結果,日本の大相撲で活躍している白鵬のお父さんが優勝した。
 スタジアムの外の射場で弓の競技が行われていたが,だらだらした感じで,勝負の状況はよく分からなかった。
 ホテルに戻って忙しい昼食をすませてから,30kmほど離れた草原に大競馬を見に行った(添付写真)。6才から13才の少年少女騎手が乗馬する数百頭が参加する30kmレースで,これぞモンゴルという印象。観客席はゴールに近い草原で,延々と続く兵隊の列が支えるロープで、レースのコースと区切られていた。スタート地点は見えないが,上空のヘリコプターの動きでそれとなく馬が近づいてきたことがわかる。やがて,遙か彼方の緩やかな稜線に砂塵が見えた。先頭の馬は,騎手が途中で落馬したので,馬だけが走っていた。優勝したのはこの馬に続いて最後まで競り合っていた2頭の一方だった。ゴール地点は見えなかったが,テレビで繰り返して放送していた。どれが最後の馬か分からなかったが,コースアウトした馬もいた。
 ホテルの夕食では,大食堂のステージでディナーショウがあり,ウランバートル・ホテル以外のホテルの客も大勢いた。モンゴル独特の超低音と普通の声の二声で歌った22才の歌手からサイン付きのCDを買った(20USドル)。少女のアクロバットもすばらしかった。
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都丸敬介(2005.07.06)

なんでもマルチメディア(407):モンゴルの旅(3)

2004年7月10日(土)
 午前中,ブルドからウランバートルに移動。道が悪いことが分かったので,7時半に出発。朝5時に起きたときは,北極星が高い位置にあり,東の空に金星が現れていた。雨が降ったので,道路の土が締まっていて,往路ほど激しい揺れがなく,砂塵が起こらないのがよかった。13時半にウランバートルに到着。
 ウランバートルに戻ったとき,ガイドのナサさんが「電話をかけてくる」といって車を止めた。見ると,コードレス電話の親機のような,アンテナ付き電話機を脇に抱えた人が車の外に立っている。公衆電話機が少ないこの国では,携帯電話ではない固定無線アクセス方式の電話機を家の外に持ち出して,電話貸しの商売をしている人がいるのだ(写真1)。
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 気をつけてみると,街中のあちこちにこのような電話屋がいた。一応,利用料金の相場が決まっているということだが,たいした収入にはなりそうもない。それでもこうした人たちがいることは,この国のかなり厳しい電話事情と就職事情を物語っている。小遣い稼ぎではないのだ。ツーリスト・キャンプでは直径1mほどのパラボラアンテナを見かけた。この広い国では衛星通信が生命線になっていることを実感した。
 レストランで昼食後ホテルにチェックイン。初日にディスコがうるさかったことの見返りにスイートルームを用意してくれた。一休みした後,以前はダライラマの宮殿だった博物館のボグドバーン宮殿を見学。19?20世紀のラマ教の文物が展示されている。中国風の様式の建物と一体になって,なかなか立派である(写真2)。
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都丸敬介(2005.07.05)

なんでもマルチメディア(406):モンゴルの旅(2)

2004年7月9日(金)
 朝8時半出発。古都カラコルムに向かう。ブルドからカラコルムまではおよそ80km。カラコルムの町の入り口に税金徴収所があり,そのすぐそばにエルデニ・ゾー寺院の遺跡があった(添付写真)。108の仏舎利塔が並ぶ白壁に囲まれた広い矩形の場所の一角に,16世紀に建てられたいくつかの寺院建築がある。建物の様式は中国や韓国の寺院と似ている。建物内部の仏像や仏画はみな色鮮やかで,よく見ているとそれぞれに趣がある。25USドルで写真集を購入。若い僧侶が子供たちに携帯電話を見せて説明していた現代的な様子は,不思議に違和感がない光景だった。
 寺の近くにある小さな亀石の遺跡を見た後,昼食のために,草原の中のツーリスト・キャンプに向かった。道がない草原をキャンプに向かって直進しているうちに,車が浅い堀を越えられなくなったので,下車して歩き始めた。車は遠回りをして堀を渡り,まもなく歩いている我々に追いついた。
 カラコルムの町は想像していたよりも小さかった。だらだらと町が広がっているのではなく,見えない壁でもあるかのように、突然建物がなくなり草原になる。町の中心を通り過ぎて,エルデニ・ゾー寺院とカラコルムの町がそれぞれ一望できる,郊外の丘に登り、あらためて広さを感じた。
 ブルドに戻って,一休みしてから乗馬体験。馬に乗る前に,馬主のゲルを訪ねて生活を垣間見た。全員馬に乗り,馬に乗った牧童に手綱を引かれて2時間ほどのツアーをした。いきなりぼこぼこの草原に入ったときはどうなることかと思ったが,直線距離で3kmほど離れた砂丘まで往復した。時間の感覚も速度の感覚もなくなった。
 夕食は,ホルホグという羊の蒸し焼き。乗馬が終わってキャンプに戻ったときに解体していた羊を塩味だけで調理したもの。ジューシーでおいしかった。山のような骨が皿に積み上がった。星空がきれいだった。
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都丸敬介(2005.07.04)

なんでもマルチメディア(405):モンゴルの旅(1)

1年前の2004年7月に、ベストシーズンのモンゴル旅行を楽しみました。シルクロード旅行記に続いて、このときの様子をお知らせします。データ量が増えて恐縮ですが、写真を1枚添付します。写真のファイル形式はJPEGで、できるだけデータ量を減らすようにデータ圧縮符号化処理をしました。
2004年7月7日(水)
 一度は訪ねてみたいと思っていたモンゴルに行ってきた。きっかけはJALの旅行雑誌「Agora」に掲載されていたパックツアーの案内。一年に一度開かれるナーダム祭見物が日程に含まれていたので,迷わずに申し込んだ。一行はツアー参加者9名とガイドの10名。MIATモンゴル航空のOM502便は,定刻の13時30分より少し遅れて出発したが,ウランバートルにはほぼ定刻に到着した。飛行時間は5時間弱。現地ガイドのナサさんは,モンゴル国立大学を卒業した後日本に留学して高崎に3年滞在したという。
 ウランバートル・ホテル泊。ロシア時代に建てられた一流ホテルだが,夜中までディスコの音がうるさかった。後で分かったが,この日が店開きで盛り上がっていたという。ホテルで100ドルを両替したら,17万トゥグルク(Tg)になった。レストランや土産物屋では米ドルが使える。
 ウランバートル空港に到着したときは,日本と同じくらい暑かったが,夜はさわやかに涼しくなった。
2004年7月8日(木)
 午前8時半にホテルをチェックアウトして,バスで市内随一のガンダン寺院を訪問。ウランバートル市は人口76万人で,全国人口の約3分の1が集まっているという。北京やソウルに似た大都市で,市の中心部は整然としている。ガンダン寺は19世紀に建立されたチベット仏教寺院で,ソ連が支配した時代にはかなり迫害されたようだ。観音堂にある高さ25mの観音像は1996年に再建した新しいもの。監視所のような高い建物の上で,二人の僧がホラ貝を吹いて,読経の時間になったことを知らせる。
 寺院拝観後,今夜の宿泊地ブルドへのドライブが始まった。市街地を離れるとなだらかな起伏の草原が始まった。舗装された幹線道路は穴だらけで,昼寝どころではない。緊張していないとドスンという衝撃で腰痛になりかねない。マイクロバスは運転手が個人で購入した,韓国製の中古車で,馬力も弱いが,運転技術はしっかりしている。平均時速は30km程度。すれ違う車はほとんどない。
 数10センチの草に覆われた草原を漠然と想像していたが,草原の草はほとんど地面に張り付いている。3時間ばかり走ったところで昼食休憩。舗装道路から数百メートル離れた草原の中に,建物が一つぽつんとあった。これがドライブイン。外国人向けのコースメニューの昼食がでた。
 ドライブインを出てしばらくすると,道路の舗装工事区間に出た。本来の道路からはずれて草原の中を走る。文字通りオフロード・ドライブだ。車輪の跡が何本もあり,砂埃がもうもうとしている。車には冷房がないが,窓を開けられないので暑い。こんな道を一時間ばかり走って,工事区間が終わったときはほっとした。宿泊地のブルドのツーリスト・キャンプに着いたのは午後6時頃だった。
 ツーリスト・キャンプは,草原の中に,遊牧民の移動住居であるゲルが20ほど建っていた。ゲルは円筒形のテントで,他の国ではパオと呼ばれているものと同じである。キャンプの中央部分には食堂の大きなゲルがあり,共用のトイレとシャワー室がある。ゲルは清潔で,ベッドが3つ入っていた。中央には薪ストーブがあり電気もつく。遊牧民は大地を敬い,傷を付けないために,土を掘った土台を作らず,畑も作らないという。
 夕立があり,見事な二重の虹が出た(添付写真)。日本とモンゴルには1時間の時差があるが,夏時間を実施しているので,現在は時差なし。しかも緯度が高いので日没は9時頃。地平線まで草原なので,日没後もなかなか暗くならず,星が見え始めたのは10時半過ぎだった。ストーブに火をつけなかったが,震えるような寒さにはならなかった。
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都丸敬介(2005.07.03)

なんでもマルチメディア(401):シルクロードの旅(8)

6月4日(土)
 9時にホテルを出発して空港に向かい、西安までの国内線に乗る。機内は空席が目立った。中国ではテロ防止のために液体類の機内持ち込みが厳しく制限されている。酒類は没収。ペットボトルの水を保安係の前で飲んでみせるよう要請された。
 西安空港は2年前に改築されてきれいになったが、町からは遠くなった。空港近くのレストランで昼食をすませてから、西安の町に行く途中で兵馬俑坑と楊貴妃ゆかりの華清池を見学。運転手がハイウエイの分岐を間違えて、高速道路を数百mバックで走ったが、車が少ないので何事もなかった。
 兵馬俑坑では、ペルー大統領の視察と時間が重なり、見学開始までしばらく待たされた。待っている間に雨が降り始めた。久しぶりの雨らしい。
 1?3号坑は5年前とほとんど変わっていない。発見者の農民(現在71才)も健在で、相変わらずサイン・サービスをしていた。この地域名産のザクロは花が咲いていた。5年前の秋に訪れてとき、食後のデザートに、甘い大きなザクロが一個、丸ごと出されたのを思い出した。
 華清池は隣接した広い駐車場ができ、観光地としての設備が整った。5年前には人、自転車、荷車、そして自動車が無秩序に混じり合っていた道路は広くなり、歩道も整備された。自転車をほとんど見かけなくなった。
 西安のホテルはハイアット・リージェンシー西安。チェックインしたあと、市の中心部にある大きな餃子店でツアー最後の夕食を楽しんだ。名物の多種類の餃子と赤ワインで大いに盛り上がった。
6月5日(日)
 今日も雨。シルクロード出発点の西門に登り、町を囲む古代の城壁を見た。城壁は一周14kmで、城壁の上の広い道を周回するマラソン大会が開かれるという。玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を収めた大雁塔の最上階から、シルクロードが始まる道を眺めて旅が終わった。
 西安から成田への直行便は、飛行時間が4時間15分。空いていた。
都丸敬介(2005.06.18)
*都丸敬介シルクロードの旅 特別スライドはこちらをご覧下さい(7月末まで公開中)
サンプル
千仏洞(トルファン).jpg
ウルムチ(天地).jpg

なんでもマルチメディア(400):シルクロードの旅(7)

6月3日(金)
 敦煌の北東にある安西郊外の楡林窟を見学。敦煌と安西の間の距離は約120kmだが、道路工事中のために、敦煌駅がある柳園を迂回したので、楡林窟までは片道280kmの長距離ドライブになった。安西と楡林窟の間に工事中のバラス道路があったが、全体としては幹線道路の整備が進んでいる。国道沿いに1km間隔で置かれている道路里程標の数値が数千kmなのには驚いた。中国の広さを改めて認識した。
 楡林窟の構築開始は6世紀以前であり、7?9世紀の唐時代のすぐれた壁画が有名だ。一般公開されたのは1997年であり、NHKの第一次シルクロード取材には記録されてない。 大地を深くえぐった河の両側の崖に多くの石窟が並んでいる。切り立った断崖で、どうやって工事をしたのかと思う。見学の案内を待っているときに小雨を伴った強い風が吹き、木製のベンチが倒れた。雨が降ると見学できなくなるという。
 並んだ窟の外側にテラス状の通路があり、窟ごとに入り口が設けられているが、各窟は岩をくり抜いた小さいトンネルでつながっている。
 帰路、短い時間ではあるが強風で砂が舞い上がり、車の前がほとんど見えなくなった。
都丸敬介(2005.06.17)

なんでもマルチメディア(400):シルクロードの旅(7)

6月3日(金)
 敦煌の北東にある安西郊外の楡林窟を見学。敦煌と安西の間の距離は約120kmだが、道路工事中のために、敦煌駅がある柳園を迂回したので、楡林窟までは片道280kmの長距離ドライブになった。安西と楡林窟の間に工事中のバラス道路があったが、全体としては幹線道路の整備が進んでいる。国道沿いに1km間隔で置かれている道路里程標の数値が数千kmなのには驚いた。中国の広さを改めて認識した。
 楡林窟の構築開始は6世紀以前であり、7?9世紀の唐時代のすぐれた壁画が有名だ。一般公開されたのは1997年であり、NHKの第一次シルクロード取材には記録されてない。 大地を深くえぐった河の両側の崖に多くの石窟が並んでいる。切り立った断崖で、どうやって工事をしたのかと思う。見学の案内を待っているときに小雨を伴った強い風が吹き、木製のベンチが倒れた。雨が降ると見学できなくなるという。
 並んだ窟の外側にテラス状の通路があり、窟ごとに入り口が設けられているが、各窟は岩をくり抜いた小さいトンネルでつながっている。
 帰路、短い時間ではあるが強風で砂が舞い上がり、車の前がほとんど見えなくなった。
都丸敬介(2005.06.17)