2004年7月9日(金)
朝8時半出発。古都カラコルムに向かう。ブルドからカラコルムまではおよそ80km。カラコルムの町の入り口に税金徴収所があり,そのすぐそばにエルデニ・ゾー寺院の遺跡があった(添付写真)。108の仏舎利塔が並ぶ白壁に囲まれた広い矩形の場所の一角に,16世紀に建てられたいくつかの寺院建築がある。建物の様式は中国や韓国の寺院と似ている。建物内部の仏像や仏画はみな色鮮やかで,よく見ているとそれぞれに趣がある。25USドルで写真集を購入。若い僧侶が子供たちに携帯電話を見せて説明していた現代的な様子は,不思議に違和感がない光景だった。
寺の近くにある小さな亀石の遺跡を見た後,昼食のために,草原の中のツーリスト・キャンプに向かった。道がない草原をキャンプに向かって直進しているうちに,車が浅い堀を越えられなくなったので,下車して歩き始めた。車は遠回りをして堀を渡り,まもなく歩いている我々に追いついた。
カラコルムの町は想像していたよりも小さかった。だらだらと町が広がっているのではなく,見えない壁でもあるかのように、突然建物がなくなり草原になる。町の中心を通り過ぎて,エルデニ・ゾー寺院とカラコルムの町がそれぞれ一望できる,郊外の丘に登り、あらためて広さを感じた。
ブルドに戻って,一休みしてから乗馬体験。馬に乗る前に,馬主のゲルを訪ねて生活を垣間見た。全員馬に乗り,馬に乗った牧童に手綱を引かれて2時間ほどのツアーをした。いきなりぼこぼこの草原に入ったときはどうなることかと思ったが,直線距離で3kmほど離れた砂丘まで往復した。時間の感覚も速度の感覚もなくなった。
夕食は,ホルホグという羊の蒸し焼き。乗馬が終わってキャンプに戻ったときに解体していた羊を塩味だけで調理したもの。ジューシーでおいしかった。山のような骨が皿に積み上がった。星空がきれいだった。

都丸敬介(2005.07.04)
日: 2005年7月4日
なんでもマルチメディア(405):モンゴルの旅(1)
1年前の2004年7月に、ベストシーズンのモンゴル旅行を楽しみました。シルクロード旅行記に続いて、このときの様子をお知らせします。データ量が増えて恐縮ですが、写真を1枚添付します。写真のファイル形式はJPEGで、できるだけデータ量を減らすようにデータ圧縮符号化処理をしました。
2004年7月7日(水)
一度は訪ねてみたいと思っていたモンゴルに行ってきた。きっかけはJALの旅行雑誌「Agora」に掲載されていたパックツアーの案内。一年に一度開かれるナーダム祭見物が日程に含まれていたので,迷わずに申し込んだ。一行はツアー参加者9名とガイドの10名。MIATモンゴル航空のOM502便は,定刻の13時30分より少し遅れて出発したが,ウランバートルにはほぼ定刻に到着した。飛行時間は5時間弱。現地ガイドのナサさんは,モンゴル国立大学を卒業した後日本に留学して高崎に3年滞在したという。
ウランバートル・ホテル泊。ロシア時代に建てられた一流ホテルだが,夜中までディスコの音がうるさかった。後で分かったが,この日が店開きで盛り上がっていたという。ホテルで100ドルを両替したら,17万トゥグルク(Tg)になった。レストランや土産物屋では米ドルが使える。
ウランバートル空港に到着したときは,日本と同じくらい暑かったが,夜はさわやかに涼しくなった。
2004年7月8日(木)
午前8時半にホテルをチェックアウトして,バスで市内随一のガンダン寺院を訪問。ウランバートル市は人口76万人で,全国人口の約3分の1が集まっているという。北京やソウルに似た大都市で,市の中心部は整然としている。ガンダン寺は19世紀に建立されたチベット仏教寺院で,ソ連が支配した時代にはかなり迫害されたようだ。観音堂にある高さ25mの観音像は1996年に再建した新しいもの。監視所のような高い建物の上で,二人の僧がホラ貝を吹いて,読経の時間になったことを知らせる。
寺院拝観後,今夜の宿泊地ブルドへのドライブが始まった。市街地を離れるとなだらかな起伏の草原が始まった。舗装された幹線道路は穴だらけで,昼寝どころではない。緊張していないとドスンという衝撃で腰痛になりかねない。マイクロバスは運転手が個人で購入した,韓国製の中古車で,馬力も弱いが,運転技術はしっかりしている。平均時速は30km程度。すれ違う車はほとんどない。
数10センチの草に覆われた草原を漠然と想像していたが,草原の草はほとんど地面に張り付いている。3時間ばかり走ったところで昼食休憩。舗装道路から数百メートル離れた草原の中に,建物が一つぽつんとあった。これがドライブイン。外国人向けのコースメニューの昼食がでた。
ドライブインを出てしばらくすると,道路の舗装工事区間に出た。本来の道路からはずれて草原の中を走る。文字通りオフロード・ドライブだ。車輪の跡が何本もあり,砂埃がもうもうとしている。車には冷房がないが,窓を開けられないので暑い。こんな道を一時間ばかり走って,工事区間が終わったときはほっとした。宿泊地のブルドのツーリスト・キャンプに着いたのは午後6時頃だった。
ツーリスト・キャンプは,草原の中に,遊牧民の移動住居であるゲルが20ほど建っていた。ゲルは円筒形のテントで,他の国ではパオと呼ばれているものと同じである。キャンプの中央部分には食堂の大きなゲルがあり,共用のトイレとシャワー室がある。ゲルは清潔で,ベッドが3つ入っていた。中央には薪ストーブがあり電気もつく。遊牧民は大地を敬い,傷を付けないために,土を掘った土台を作らず,畑も作らないという。
夕立があり,見事な二重の虹が出た(添付写真)。日本とモンゴルには1時間の時差があるが,夏時間を実施しているので,現在は時差なし。しかも緯度が高いので日没は9時頃。地平線まで草原なので,日没後もなかなか暗くならず,星が見え始めたのは10時半過ぎだった。ストーブに火をつけなかったが,震えるような寒さにはならなかった。

都丸敬介(2005.07.03)
なんでもマルチメディア(404):先駆者の視点
1970年代に宅急便事業を始めたことで有名な、元ヤマト運輸会長の小倉昌男氏が亡くなられました。ご冥福を祈ります。宅急便事業が軌道に乗った1980年代の中頃、あるセミナーの講師控え室で、短い時間でしたが、この事業を始めた頃の興味深い話を聞いたことがあります。
一つは、伝票に届け先の電話番号を書いて貰うかどうかということで長い議論をした結果、電話番号が必要だという結論に達したという話です。荷物を受け付けてから24時間以内に届けるというコンセプトを実践するために、前もって電話で届け先の在宅状況を確認することにした結果、不在持ち帰りを減らすと同時にユーザーの信頼を得たそうです。
もう一つは、荷物を受け付ける取扱所の数を、郵便局と同程度にするか、米屋と同程度にするかという議論をしたということです。この発想は面白いと思いました。
スキー宅急便サービスを始めた年に、あるスキー場で、豪雪のためにスキーを積んだトラックが立ち往生するというトラブルが発生し、現地で貸しスキーを確保して何とか急場をしのいだそうです。スキー場では大雪が降ることが念頭になかったと笑っていました。
しばらく後に、同社の技術担当スタッフから二つの問題について相談を受けました。第一は、集配センターで迷子になった荷物を確実に見つける方法がないかという問題です。第二は、深夜の集配センターでトラックが到着するのを待っている作業者のために、道路を走っているトラックの現在位置を常に把握したいという問題です。現在の技術では、第一の問題は無線タグの応用で、第二の問題はGPSと携帯電話の応用でそれぞれ解決できますが、いまから20年前には大変難しい問題だったのです。
こうした現場での体験がその後の事業に活かされたはずであり、先駆者の苦労がしのばれます。
都丸敬介(2005.07.02)