なんでもマルチメディア(646):NTTドコモの大事故

2012年1月25日にNTTドコモで大規模の通信障害が発生しました。同社では2011年12月20日にも大規模の障害が発生しました。今回の事故はスマートフォン(スマホ)の急速な普及拡大に対処するために更新したパケット交換機の処理能力不足であり、通信量(トラフィック)の増大を過小評価したという説明がありました。

通信ネットワークは、データを運ぶリンク(通信回線)と、通信を制御するノード(交換機やサーバー)に大別されます。過大トラフィックによる通信障害というと、一般にはリンクの容量不足が考えられますが、今回の障害と12月の障害は、いずれもノードの処理能力不足に起因したことです。

 テレビや新聞の解説では具体的な事故発生原因はわかりませんが、インターネット技術の根幹であるIPアドレスの使い方が絡んでいると考えられます。現在使われているIPv4(IP第4版)のアドレス数が足りなくなる可能性が1980年代に指摘され、1990年代にはIPアドレス数を大幅に拡大したIPv6の規格が制定されました。しかし、IPv6の普及は進んでいません。

 すべてのスマホにIPv6アドレスを固定的に割り当てて運用するならば、NTTドコモで発生したような深刻な障害を防ぐことができるはずです。さらに、スマホの応用分野の拡大にも効果があります。

 BIネット主催のセミナーあるいは研究会で、この問題を取り上げて徹底的に議論すれば、世界をリードする新しい潮流を生み出すきっかけになると考えます。

都丸敬介(2012年1月27日)

なんでもマルチメディア(645):電気通信事業法

1980年代に実現した、情報通信の分野の革命的な出来事の1つに電気通信事業法の施行があります。1985年4月1日に施行されたこの法律によって、だれでも電気通信事業に参入できるようになりました。電気通信事業は社会を支える重要なインフラであることから、国内通信は日本電信電話公社、国際通信は国際電信電話株式会社の独占事業だったのが、この法律によって自由化されました。

この法律では通信回線設備を備えている第一種電気通信事業者と、第一種電気通信事業者から通信回線設備を借りてユーザーに又貸しする第二種電気通信事業者の区分けがありました。そして、日本全国で多数の第二種電気通信事業者が生まれました。この法律の施行から1年たった頃、郵政省(当時)の幹部の一人が「1つの法律の施行によって、1年間に千を超す会社が生まれたことは前例がない」と胸を張っていたことを覚えています。

 この後、2003年に電気通信事業法の大幅改正があり、現在では第一種と第二種の区分がなくなりました。日本ではインターネットサービスプロバイダー(ISP)は電気通信事業者として扱われているので、事業を始めるときは総務省に届出をすることになっています。

 1985年当時の電気通信はアナログ電話が中心であり、ファクシミリや文字データを扱うデータ通信が始まったばかりでした。その後、電話のディジタル化や携帯電話、インターネット商用サービス、通信回線のブロードバンド化などが急速に進み、現在もさらなる発展が続いています。同時に、情報通信を悪用した犯罪行為を始めとする新たな社会問題が続出しています。新しい時代の起爆剤になるような健全な政策が情報通信の分野でも求められますが、残念なことにその芽はまだ見えません。

都丸敬介(2012年1月11日)

なんでもマルチメディア(644):1980年代と今

新しい年が始まりました。今、日本は多くの難問を抱えて、明るさを失った状態にあります。ハンドレッドクラブ発足のきっかけは、1984年9月に実施された”欧州テレトピア調査団”です。1980年代は日本が敗戦後のどん底の状態から這い上がって、ようやく経済大国として世界に認められた時代です。しかし学ぶことが多く、世界のリーダーという状態ではありませんでした。

 テレトピアは1983年に郵政省が提唱した地域情報化構想です。同じ年に通商産業省はニューメディア・コミュニティという地域情報化構想を提唱していました。これらの構想が一斉に生まれた背景には、通信ネットワークのデジタル化、コンピューターの利用分野の拡大、マルチメディア情報通信技術の発展などがあります。そして、多くの夢が次々に現実のものになり始め、今ではインターネットや多目的モバイル通信などの1980年代に実用化された技術が日常生活や産業を大きく変えました。しかし、全ての夢が実現されたわけではありません。

 技術開発の経緯を見ると、最初の構想が成功した後にいろいろな枝が伸びて大木になったもの、一旦は成功したけれども短期間で陳腐化して姿を消したもの、大きな話題になったけれども日の目を見なかったものなどがあります。成功体験は貴重な教訓になりますが、成功の代償として犠牲が出ることもよくあります。当初は成功しなかったけれども、何かをきっかけにして大成功を収めたものもあります。
 この後しばらく続けて、エキサイティングな1980年代に情報通信システムの開発に携わる幸運に恵まれた技術者の一人として体験した、当時の世界の動きと現状を見比べながら、いろいろなテーマを取り上げたいと考えています。

都丸敬介(2012年1月5日)